与野下落合氷川神社

氷川神社の由来と伝説

古来より人が住み何らかの祭祀の行われていた氷川神社境内に、何時神社が創建されていたのか解らず笠間通り商店街とか、笠森神社と呼ばれている意味を知らずに使っていますが、下落合村そのものが桜木川とか霧敷川などが鴻沼という、東京湾の名残の沼沢地に幾筋もの川が落ち合っていましたので、何時しか落合と呼ばれ戦国末頃から数件の農民が開墾し定住しだしたのが起こりのようです。

鎌倉末から室町時代に大宮台地の外れで、巨大な沼沢地を望む高台に渋川氏の戦闘施設として、落合陣屋が置かれ現在の最高地である神社境内の南の、交通の要衝として近郷の武装農民の盟主として君臨しており、村を形成していったのがそもそも発展の基礎となったようです。但し台地上に河川が無く僅かに湧き水がある程度なので、農業としてそれ程発展せずに村として成立した当時、落合七家と言われる程度の小さな集落だったようでそれ程重要ではありませんでした。

然し神社そのものは伝説によると永承六年(千五十一年)に始まった前九年の役にさいし、征夷大将軍として前九年の役に向かう途中、源の頼義、八幡太郎義家の親子が与野近辺で募兵し兵を休ませた時に、湖の彼方に美しい森が笠のように生い茂っているのを見て問い質し、古くからの神社があると聞いて参拝し無事凱旋するにさいしてもお礼参りをして、美しく笠のように見事な森だと賞賛していたので笠森と言われだしたようです。

やや時代が下がり文永十一年(千二百七十四年)蒙古軍が九州に攻め寄せた時に、当地の武装農民つまり武士たちが源の頼義、義家の故事にあやかろうと氷川神社に参拝し奉納されていた石の笠を頂き、無事凱旋したのでそれ以来勝利の守り神と讃えられ、本来水神を祭るので巨大な水辺に有りましたから、無病息災、悪霊退散、五穀豊穣の神として地域住民の尊祇を受けて参りました。

氷川神社神輿

今回皆様に御協力いただきました神社神輿は、大正十四年に地域内篤志家を中心に、多大なる参加を頂き江戸時代からの旧神輿を、新規に作り城内の疫病退散と家内安全のために、奉祭して参りました下落合の神社神輿で御座います。

制作費二千八百円

当時の下落合の畑地は一反約三百坪 百七十円

山林地一反 百二十円

建坪三十坪程度の普通住宅が千五百円から千円で出来たそうです。

それ以来大切に担いで参りましたが雨天などにも出しますので、時間の経過により古びてまいり色もくすみましてしまい、昭和五十四年に神社本殿並びに拝殿の新築に当り、神輿も大修繕を行いましたが三十有余年の時間を経て、色もさめ金具も輝きを失いましたので再度修繕を致しました。

夏祭りで既に御覧になった様に大変煌びやかになり、大分緩んでいた木組みも確かりしましたので建造当時の姿に復活いたし、今後、より華やかな夏祭りを挙行していけるものと感謝申し上げます。

下落合鎮守としての氷川神社の沿革

当地に何時神社が鎮座したのか定かではありませんが、縄文海進の時代に神社境内地内に、縄文から弥生にかけての生活の残滓が認められ、笠森神社遺跡として幾つかの住居跡が確認され、古墳時代から飛鳥時代に掛けて何らかの祭祀が行われ、祭器なども出土しているので神聖なる土地として崇められていたようです。

神社としての機能の歴史は江戸時代の新編武蔵風土記などに、笠森明神社、笠間神社、或いは笠間氷川神社として、中村社として明治期に社格を与えられ、下落合村の郷社として時代時代の盛衰もありましたが、現在に至るまで地域内の尊志を受け旧社殿の改築も、明治七年(千七百七十年)棟札で確認されているようにそれ以前から確実に存在していました。

記録として最古のものは元禄三年に徳川綱吉は、村の鎮守地として一反二畝十八歩を与えるとの朱印状があり、一時国有地として無登録だったために没収され掛かりましたが、元禄時代の下落合絵図及び綱吉の朱印状を証拠として取り戻し、現在の神社境内として下落合中の所有となっております。

戦国宗教法人法が整備され村の神社としては通らなくなり氏子総代会と、責任代表者としての宮司を定めて登録いたしましたので、稲荷神社、向原不動尊の両地と共に宗教法人氷川神社と、正式名称になって現在に至っております。

平成二十二年十二月

氷川神社氏子総代長

井田 正浩

氷川神社氏子総代会一同

笠森会会員一同

後援

下落合自治会連合会